他人の言うその言葉は本当なのか嘘なのか?
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私は、「相手を信じている」のではなく「相手を信じる自分を信じている」だけです。
基本的に、人との出会いは嬉しさや喜びがあり、別れは悲しいものであると思っていて、それはまぁ、多くの人にとっても普通のことなのでしょうけど、私の場合は、甘く切ない学生時代からの「恋愛の始まりと終わり」とか、経営に関わりだした「社員の採用と退社」による経験時に得た喜怒哀楽の感情がとても大きく影響しているのだと思います。
「人の言ったことを信用するかどうか」あるいは、「人の言ったことは永遠に変わらないか」という点については、人それぞれ経験に基づく見解はあるのでしょうが、私の場合は、「その人が今言っていること自体」はその時点では信用しますが、それが「ずっと変わらないかどうか」という点においては、私は信用など一切していません。
「ずっと」「永遠に」「死ぬまで」「変わらない」「これだけは」といった類の言葉は、その時点では恐らく本当にそう思っているのだろうとは思いますが、時系列と共に変わる環境や伴う体験・経験、それに影響される価値観の変化、さらには飽きる飽きない、あるいはもっと好き・欲する対象ができたなどという一人一人の性格差レベルに至るまで考えてみた時、その言葉通りに本当に変わらない徹底した価値観の基にやり続けている人なんてのは、私は出逢ったことがありません。
自分がどうしても手に入れたい、例えば・・・・・、ずっと好きな人と付き合いたい、とか、どうしても内定が欲しい、とか、そういう対象がある時には、相手が心動かしそうになるような言葉を使って訴えますが、いざ手に入って時間が経って様々な経験をすると共に、その時の気持ちをずっと持続していけるか?と言えば、そうではないというのが私の本音と言えば本音です。
だからと言って、そういう言葉を使う人を「嘘つき」として評価することはしませんし、そう訴える気持ち自体はちゃんと受け取るし、とても嬉しいとも実感するし、とても幸せな気持ちにもなります。
ただ反面で、あまり深く考えた上で発言をしていない人か、あるいは経験不足で無知なのか、まぁそうなんだろうな、程度には同時に思いながら聞いています。
今までの経験上、100%そうでしたし、それが普通で人間らしさの一つでもあるんだろう、とも思っていますから・・・・。
人は人それぞれ自分の基準や価値観、感情の赴くまま、自分基準の選択のまま勝手に判断し生きているのだと思うし、それが良い・悪いというのではなくて、それが至って人らしく普通なのだと思っています。
ですから人の言葉というものに対して「信用する」といえば信用しているとなるし、「信用しません」といえば信用などしていない、ということになります。
こういう話をすると、とても冷たい人、冷酷な人として評価されることはあります(苦笑)。
でも、事実そういう経験則に基づいて、そう思っているのだからしかたない(苦笑)。
私だけは絶対にそんなことはないと言い切れる人っているのかなぁ・・・・?
こういう論調に対して「冷たい」「冷酷」「もっと人を信じなさい」と有難いお説教を頂ける方もいますが、そういう人もまた、煎じ詰めれば、その人の基準でのその場・その時点の価値観で考えて喋っているだけで、明日の経験によって変わるかもしれないという可能性を考えれば、無責任を前提としている、といのが本当のところでしょう。
それほどまでに人の言葉というのは曖昧で虚ろで不確定で適当なのだと思っているし、言葉の定義を完璧に共有するというのは不可能だと思うのです。
例えば、「好き」って何か?「好き」なのは何故か?という類の問いに、共有できる客観性をもった定量的な見解を明確に応えてくれた人は、私には誰一人いません。
今まで、多くの人が目の前に現れて、近づき、そして去っていきました。
勝手に燃えて、勝手に冷めて、その人なりの基準と論法でまた次のところへと移ってはと繰り返していきます。
その度に、悲しくなったり、辛さを感じたり、相手を恨んだり、自分を責めたり、釈然としない感情に引きずられたりとしたこともありましたが、それは「私は相手の言うことを100%信用したのに・・・・」という無責任さが前提にあるからだと、いつしか思うようになりました。
相手が「好きだ」と言った、相手が「ずっと一緒にいたい」と言った、相手が「憧れている」と言った、相手が「どうしても共に働きたい」と言った・・・・・・、なのに、月日が経って色んな事があったら離れていく現実があるということは、相手がひどくて悪い奴でウソつきなのか、自分が至らないバカで能無しで人の期待を裏切るような奴だからなのか・・・・・、そんな答えがあるのかないのかすら分からない迷宮の泥沼に入り込んだ時の面倒くささは、幾多の場面でそれなりに経験してきたつもりです。
都度、いろいろ考えたあげく、「相手の言葉は相手のものであり、自分のものではない。」という、そもそもの前提が違っていた、ということに気づきました。
相手の言った言葉を、自分の基準・額面で受け取って、言葉を自分と全く同じ価値観に基づいていると思い込んでいるがゆえ、「自分ならそうではないのに・・・。」となってしまうに過ぎないという当たり前と言えば当たり前のことなんでしょうけどね。
人は、人とは同じでいたくないという気持ちと、人と同じでいたいという気持ちを、自分の中で都合よく使い分けしては、勝手に喜んだり憂いたりしているものなんだとつくづく思います。
人は、一人づつ違うものだと私は思っていますから、他人は他人の基準で自分というものをどう認識するのかも、自分の基準と違っていて当然なわけで、それは頭では分かっているのです。
なのに、自分にとって都合の良い誰かが引っ付いてくると何だか嬉しいし毎日がハッピーで何もかもが楽しくなったり、離れると何だか悲しくて辛くてもう死んでしまいたいとまで思える、ってのは、どんなに頭で分かっていたところで感情や脳がそう認識してしまうのだから、それが人間というものなんだろうなとも思う次第です。
ただ、そういうことに翻弄されて自身の人生まで虚ろで曖昧にはなりたくないし、無駄にはしたくない。
だからといって、人社会の中で誰とも関わらずに生きていくことも不可能(まぁ、無人島で一人で生きれば別ですが、そこまで本気でしたいとも思わない。)なわけで、
さらに、人と出逢う喜びと、人と離れる悲しさの、その多くを経験している人の方が、私から見て人として深みも広さも持ち合わせていて魅力的に感じるとも思うのです。
だから、誰とも出会いたくもないし、誰とも離れたくないなどという気持ちにはなりません。
どんどん出会い、出会いの数と同じ別れがあればいいのです。
ただ、別れを目の当たりにしたり、そう予感させられるような出来事があったりして、自分ばかりが相手に想いを寄せていて、相手はそうでもないと認識した時の心の動揺や悲しさは多かれ少なかれあるわけだから、それに翻弄されるようなリスクは克服しておきたい。
そんなことを都度考えながら行きついたのが「相手を信じているんじゃなくて、相手を信じている自分を信じているだけ。」ということです。
そうであれば、一方的に相手を責めたり恨んだり、原因を相手に求めたり、言っている言葉が本当かどうかなどという確定要素のない問いもしなくて済む。
何かあっても「自分が勝手に信じただけだ。」と答えが明確です。
この考え方が当たり前になると、相手の言った言葉をどう受け取るかについては素直に一旦受け取ればいいし、しかし、それに100%委ねるようなことはしなくなってきているような気がします。
私も誰も、基本的には自分の都合の良い時だけ、都合の良い誰かを選んでは、自分都合の依頼をしては求めているに過ぎません。
そう自己認識するのが苦手な人がいるかもしれませんが、一度に全ての人を相手にするのは現実的には不可能なのだから、意図していようといまいと選択をしていて、その選択以外は選択していないのです。
自分も誰もなのだから、自分が選択されていないことについて、そこまで憂う必要もないでしょ?ということです。
人と関われば関わるほどに面倒なことも嬉しいことも悲しいことも、殺されるような冷たさも、そして救われるような尊さも一杯あるけど、繰り返し繰り返しながら、人は人を知り自分を知り、「人間」になっていくのだろうと思っています。
「嫌なことがあったも、真正面から受け過ぎずに流していけばいい」とはよく聞きますし、その通りだと思いますが、それこそ言葉だけで理解したところでそうそうできることではありません。でもある一定の経験に基づいた上で言葉を理解すると、それも自然になれるとしたら、それが本物だということなのでしょうね。
そうでありたいとは思っています。
そんなことを考えながら、目の前の「茶色でトグロを巻いている物体」は、冷たくて甘くて美味しいアイスクリームであることを信じているのは自分であって、別のものであっても誰の責任でもなく自分の選択なんだ、と思いながら頬張る瞬間を迎えているのでした(笑)。