「楽しい」の軸は自分だけか、他人も入っているのか?

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「仕事がもっと楽しくならないものか?」

「仕事をもっと楽しくしたいんです。」

「誰それみたいに楽しい仕事が私もしたいんです。」

というご依頼やご相談は結構あって、私はそれはとても良いことだと思っていますが、

時に、そんな悲壮で悩み絶頂な顔して言わなくていいじゃん(笑)、

と思える方に出くわすこともよくあります(苦笑)。

 

そういう方に、

「ところで、あなたが楽しいこと、とか、楽しかったことって、そもそも何ですか?」

聞いてみると、

これが案外明確じゃなかったりします(笑)。

 

自分の「楽しさ」とは何なのか?

自分の「楽しい」の定義は何なのか?

これが分かっていないのに、どうやって楽しい状態をつくるんでしょうかね?

となることが結構あったりするんですね(笑)。

 

よくよく考えてみれば、自分でまとまってなかった、と気づいて、

過去の体験・経験から自分の基準を明確にしていける場合はいいのですが、

中には、

「誰か、私がもっともっと楽しくなるようにしてちょうだい。」

と願ってるだけなんじゃねーか?と思える人もいます(苦笑)。

これがキツイ(苦笑)。

お姫様でいるつもりなんかい??

と思える人もいます(苦笑)。

 

そういう方は、ディズニーランドとかUSJとか、キャバクラとか、お金を払って楽しませてくれる所に行って、自分を楽しませてくれることを前提にしているところに、お金を払って行くのが一番いいと思うのですが(苦笑)、

実際に楽しんで仕事をしている人を目の当たりにすると、自分もそうありたいと羨ましくなってしまって、

「楽しい」の言葉を勘違いして、

「私も、もっと楽しみたい。ちなみに今の仕事は楽しくない。私ももっと楽しく仕事がしたい。あの人達はあんなに楽しそうにしてるのに、私は楽しくない。だから、楽しませて、私を楽しませて。だって、あんなに楽しそうにしてる人達がいるんだから、だから、あなたが私を楽しませて。」

となってしまう人は、表層の「楽しい」という記号では理解し合えないから、分からせることは相当に手こずります(苦笑)。

 

昨今、「楽しい」というのは誰もが標榜するキーワードだから、

多くのビジネスマンやスポーツ選手も使うから、

何でもかんでも「楽しい」「楽しんでます」「楽しんできますね。」と、まるで合言葉のように使われることがあるけど、

私の場合は、あぁ素敵だなぁと思える人は、

総じて、自分だけが楽しんでいるのではなくて、

自分以外の他人も楽しめる状態を創りだせている人が「楽しい」を実現できてるんだろうなぁ、と思うのです。

 

いわば、自分だけが楽しいのを標榜している人と、

自分と自分以外の誰かという2つの軸を認識しながら楽しくありたい人というのは、

同じ「楽しい」という言葉を使っていても全く違うということになります。

 

これは、比較的、判断するのは簡単で、

「好きなこと、楽しいことは何ですか?」

という質問をした時の答が、

自分だけが楽しいことをあげるか、

自分以外の誰かのことも一緒に出てくるかで、

判別がつきます。

 

例えば、「一人でゲームをしたり、テレビを見たり、マンガを読んでいる時が一番楽しいです。」

と、いう場合と、

「いつも怖かった父親が、私の描いたマンガを見た時にとても嬉しそうに笑ってくれて、それがずっと残ってて、だから、私は今でもマンガを読んだり描いたリして誰かに喜んでもらえるのが、何より楽しいんです。」

という場合では、同じマンガでも意味合いが全く違います。

 

自分の楽しいことが、誰かの喜びや楽しさに貢献するのか、

誰かの喜びや楽しさの為に行動していることが、自分の何よりの楽しさなのか、

最初の入り口が違っていても、

「素敵な楽しさ」を生き生きと語っていて素敵な生き方だなぁ、と思える人は、

必ず、自分と自分以外の誰かの2つの軸があることが共通項目としてあります。

 

自分だけが楽しかったことをべらべら言われたら、結構面倒くさいし、疲れるけど、

自分のやったこと・やっていることが誰かの喜びや楽しさに繋がって、それがとっても嬉しくて楽しかった、という話は、

ホントに良かったね、となったりするものです。

私の場合はですが。

 

どんなに楽しいと思っている仕事でも、その中には、誰もが、自分が楽しいことも、楽しくないこともあったり、

時系列と共に楽しい・楽しくないの基準が変化していったり、

そういう諸行無常の中で生きていると思うのです。

 

それが普通であり、当たり前だと私は思っていて、

それなら、人に発信することは、

自分も楽しくて、見る人もきっと楽しいと思ってもらえるだろうことにするのが、

結果として「楽しい」生き方であり、人からもそう認識されるのではないか?と思うのです。

 

そうなると、もしかしたら、「楽しい生き方」とか、「仕事が楽しい」というのは、

実態がどうかという問題よりも、その人の意識や、心がけに委ねられる問題の方が大きい気がするのです。

実際に、私から見て、とても悲惨で大変なことなんじゃねーか?と思えるようなことを、

本当にとても楽しそうに話す人もいれば、

こいつ、こっちからしたら、どこまで恵まれてて、なんて楽しいんだ?と思えるのに、

恐ろしく不幸で悲惨に語る人もいたりします(笑)。

 

そういう場面に出くわすたび、同じ生きるなら、自分はどちら側でいたいのかと教えられるような気がするのです。

 

楽しくもないことを「今日も楽しい」なんて嘘もつきたくないし、無理もしたくない。

でも、どんなことでも、楽しめて面白がられる器にデカい、型破りで魅力的で素敵な人ではいたいなぁ、と

色んな人を見ながら思うのです。

 

とかなんとか考えながら、過去の画像を掘り起こしていると、

どうでもいいことを楽しそうにしている記録しか出てこないのは、

色々あっても、まぁ、幸せなんだろうな、と思い、

ここまで考えて、やっぱり考えなくてもいいや、と思えるのでした(苦笑)。

自分も誰かも楽しいのが聞いていて楽しい。
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