自分は見て欲しいけど、他人のことはすぐ忘れるのだから

お仕事が終わって、帰り道、

人影まばらな駅のホームで、あまりの寒さにフードを被り、一人寂しくたたずむ私の姿を、

反対側のホームから、バブこと藤田君が撮っててくれました(笑)。

あまりにも、寒そうで、独りぼっちで、寂しそうで、悲しそうです(笑)。

 

でも、この時は、ホームに吹く風が冷たくて、寒くて寒くて、

それまで一緒にいた皆さんと別れて、一人ぼっちになって、

人影まばらなホームが、とっても切なくて、ホントに何だか寂しい気持ちになってた時でしたから(笑)、

そんな時に、反対側のホームに人を見つけたり、

その人が自分の写真を撮って、送ってくれるのは、何だかんだ救われるような気持ちにもなったりもしたのでした(笑)。

 

 

人は、自分の存在を認めて欲しい生き物なのだと思います。

そのくせ、他人の存在は、特別な関係でもない限り、瞬く間に消え去っていって行きます。

 

同様に、自分は誰からも好かれていたいけど、自分は他人の好き嫌いの選択をする側でいたいし、

自分は他人に憶えていて欲しいけど、他人のことなど儚く忘れ去っていきます。

私などは、その傾向は顕著極まりない代表のようなものです(笑)。

 

だから、人は、許してくれる相手だと、相手のことを認識すればするほど、

すごく嬉しいことがあったり、とても悲しいことがあったり、怒りに震えるようなことがあったり、すごく楽しいことがあったりすると、

聞いて聞いて!見て見て!今、自分はこんなにもこんな感情になってるんだよ!こんな気持ちなんだよ!知って知って!私の感情を知って!存在を知って!

と他人に自分を分かって欲しくなるのだろうし、共感して欲しくて、訴えるのだと思います。

 

それは、時に、相手の気持ちや感情や事情などお構いなしで、自分の感情を訴えたいだけ訴えて、

自分の感情に相手を引きずり込もうとする、小さな子供と同じとなります。

 

ほんの少しのことでも、自分のことは、大騒ぎの、大事件の、誰も到達したことのないお手柄の、世紀の大発見で(笑)、

時に泣いたり、わめいたり、時に、ブログやSNSで喜怒哀楽の感情をブチまけて訴えたり、

それは、喜怒哀楽どんな感情であれ、ブチまけられて受け取る側は、

大人の顔して近寄ってきた、実は子供丸出しの相手をさせられるわけで、相当に面倒で辛いことでもあります(苦笑)。

 

言いたいことを言わせてくれて、理解してくれると思える相手というのは、

言っている側からは心地良い関係に決まっていますが、

相手側はそう思っているかどうかは本当のところは分からなかったりしますものね。

 

本当は、誰もが、自分が頑張ったことは認めて欲しいし、讃えて欲しいし、忘れないで欲しいけど、

同時に、他人にとっては、そんな自分の刹那の感情など、簡単に忘れ去られていく一瞬であることも、本当は知っているのだと思うのです。

 

だから、どうするのか?

 

価値観が多様化している時代において、そこがとても大事のような気がしてなりません。

 

価値観が多様化しているというのは、言い換えれば、一人一人違っていていいんだよ、という時代です。

一人一人が違っているということは、誰からも認められないし、共感されないというリスクもまたはらんでいるとも言えます。

 

人と自分は違っていて当然と頭では分かっていながら、

自分とは意見が違うと思うと、一気に攻撃したり、排除したり、批判に終始したり、一切を認めなかったり、

自分は正しくて、違う人は間違っているとご丁寧に指摘したり、

 

そういう人もいることでしょうし、

そんなのはクソカッコ悪いとばかりに、思いはするけど、いちいち口に出したら、文書にしたりしてまで、主張まではしねーよ、という人もいることでしょう。

 

どちらが正しいとも思わないし、どちらでいた方が良いかどうかも、私には分かりません。

 

でも、自分はどちらでいたいのかということは、自分で決められます。

 

選択が自由であるなら、どちらでいたいのか?というのが、美学であったり、センスであったりすると、私は思うのです。

 

なかなかできないけれど、

そんなに嬉しいことがあったのなら、良かったね、と思っていてあげたいし、できればその本人以上に喜んであげていたいし、

そんなに悲しいことがあったのなら、一緒に悲しんであげられる人でいたいし、できれば本人以上に泣けるような人でいたいし、

そんなに腹立たしいことがあるなら、一緒になって怒り狂うことができたらいいのだろうな思うし、

 

そういうことを演技でも、やってあげなくちゃなという義務感でもなく、

ただ普通に、自然に、そういうことができる人でいられたら、

それはそれで素敵なんだろうな、とは思います。

 

思いはするけど、実際にはそういうのを相手し続けていると、いつかは疲れるし、

甘えてくる人というのは、ブラックホールのように吸い取っていくし、

その当たりが難しいわけで(苦笑)、

 

そういうのことをいちいち考えなくても、面倒くさくないし、ただ聞いているだけで人間を知っていく上で勉強になるなぁ、と思えるような人がいたら、

それはもう相当に幸せだということができるし、

人数が増えていって集団化した状態が、理想のコミュニティーと言えるのかもしれませんね。

 

寒くて寒くて寒い駅のホームで、フードを被って、ちょっと暖かくなって、周りを見渡す余裕ができて、

駅のホームは、人影まばらながら、

独りぼっちで帰路を急ぐ人と、向こうの方では複数名でギャアギャア騒ぐ人の群れと、様々で、

そんな人達を見ながら、私の写真を撮るバブの姿を見ながら、

ほんの少し、ほんのちょっとだけでも、今よりも、他人に寄り添えて、

もう少しだけ、あと少し、他人のことを忘れずにいてあげられるだけの器を増やせたら、

きっと、自分を素敵だと思えるのだろうなと、そう思うのでした。

 

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