あなたも私も日常が十分変で個性的

20150122-1

友人と露天風呂に入っている時に、こういうことをチンチン丸出しで大喜びでやったり、その時のアホ丸出し画像を嬉々として公開したり、こんなことばっかりやってる私が、「個性を出す」と言うと、あたかも奇をてらったり、非常識極まりないことをやることが「個性」だと思われたり、「私には坪井さんみたいなそんなことできませんよ~。」と言われたりします(苦笑)。

そりゃ、ま、こういう画像だけを限定して見るならそういうことになるんでしょうが(笑)、私の定義している「個性」というのは、その人の日常そのものにある、すなわち、「個性」=「日常」ということなんですね。

そりゃ、まぁ、いくら日常と言ってもですね、日常にもいろいろあって、名古屋駅を歩きながらチンチン丸出しで歩く日常を送っているワケじゃないので、こういうことを調子に乗ってやりたくなるのは、石川県は加賀の宿「宝生亭」の露天風呂に久しぶりに入れて、かつ、久しぶりの友人達と会えて嬉しい、とか、露天風呂でこういうことしても許されるだけの関係性が旅館の旦那とあるかとか、これ以上はしないだろうという最低限の信頼があるか、とか、周りにいる人達の許容度はあるか?、とか、そういう色んな要素が複合されて、思いついたり、やりたくなっちゃったりする訳で、そういう非日常の中の日常もひっくるめて「日常」ということになるんですけどね(笑)。

ファッションの「T・P・O」と同様に、日頃、その人の考えていることや、行動というのは、厳密に言うなら、意図していようといまいと、その人なりに、環境や集団や任意のコミュニティの中で、なんらかの行動を起こしています。

「何もしない」というのも、「何もしない」と意思決定した結果の行動といえます。

そもそも「個性」なんてものは、生まれてから死ぬまで一人に一つづつあるものだから、無理矢理探したり、探求するものではなくて、生きているだけで100%その人の「個性」だと、私は思っています。

だから、わざわざ捜す必要なんてない。

そのままで十分に個性的な訳です。

ただし、その「個性」がどれだけの人に、受け入れられたり、支持されたり、共感されたりするのかは別の問題ということです。

さらに言うと、支持されるかどうかというのは、自分以外の誰かが決めることだから、それは社会情勢とか、その時代毎の常識とか風潮とか、そういった環境に左右される訳で、例えば、経済が安定成長している時と、未来が不透明な時とでは、注目される歴史上の人物も全く変わってくるし、そもそも「普通」「常識」かどうかというのは、その時代に現存する人の多数決の多い方で決まる訳で、要するに、虚ろで曖昧なのが前提です。

「愛」とか「人の役に立つ」という原理原則や根幹論・本質は変わらないと思っているし、その言葉自体はもう誰もが知っている。

でも、その具体論実行になると、人それぞれ違うし、それこそ個性が出てくる訳で、その評価というのは、いつも虚ろで曖昧だと思うのです。

「自分なりの具体的一手」は何か?という具体論にこそ、その人らしさが出る訳で、それこそが「個性」だとすると、最も「具体的」なのは、その人の「日常」の行動行為であり、客観視できる姿です。

よって、私は「個性」=「日常」と定義してます。

リーダー不在の不透明な時代は、次の時代を切り開く「個性」が求められるとするなら、私はその人の日常や、考えていること、趣味・嗜好を、毎日のように発信し続ければ、相手が勝手に、その人の「個性」を認識して、勝手に求めるか求めないかを決めてくれる、ある意味考えなくても「個性」が確立されていく素晴らしい時代なんじゃないか?と思っています。

「個性が大事な時代」だと言われて、「自分の個性は何か?」を考えるより、日常や主張を発信し続けた方が早い。

そう思うのです。

私は、つい最近になって、やっと自覚し始めましたが、他人から「お前は個性的で変わり者だ」と言われ続けて、自分は個性的なんだ、と認識し始めました(笑)。

私本人は、長い長い間、極めて普通で一般的だと思っていたわけです(笑)。

だって、学級委員とか生徒会長とか、専務とか社長とか副社長とか、大手企業のサラリーマンとかやってたから、自覚しているのは社会的で一般的な立場にいる自分な訳ですよ(笑)。

ただ、「お前は個性的で変わり者だ」と言っている相手のことは、私から見たら、とんでもなく個性的で、変わり者だとも思ってきたし、今でも思っています(笑)。

でも、その本人は、自分は極めて普通で一般的だと自覚したりしています。

そういうことだと思うのです。

誰もが自分は「普通」だと思っているけど、他人から見たら「個性的」(笑)。

どいつもこいつも、個性的で変わり者で、変なのですよ(笑)。

自分から見た他人の「個性的」だと思うことをマネするのもアリですが、ただ、そこに無理があると、私の経験上、絶対に続きません。

「単なる一時的なマネ」と「無理」は続かないのです。

日常の発信にせよ、販促物にせよ、他人がその人の個性、すなわち「◯◯さんって、こういう人だよね。」と認識するのは、一定期間の継続が前提となります。

「無理」や「一時的な単なるマネ」は、この前提がなくなるから、個性もへったくれもなくなります。

まぁ、「マネし続けれるのが個性だ」と言い切ればそれはそれで個性なんでしょうが、そういう人って、不思議とそういう自覚をしたがらなくて、自分は独創的で個性的だと思いたがるんですよ(笑)。

無理のない継続とは何か?となると、それはもう、その人がただ生きている日常こそがそのものだと思うのです。

面白いもので、多くの人は、「自分は自分らしく個性的でいたい。」という感情と、「目立ちたくない、周りの人と一緒でいたい、普通でいたい。」という感情と、どっちも持っています(苦笑)。

これが面倒くさい(笑)。

「お前、無個性でつまんない奴だよな。」と言われても嫌がるし、「お前って、変わり者で変な奴だよなぁ。」と言われても嫌がる(笑)。

じゃ、何て言って欲しいんだよ(笑)、みたいな(笑)。

そうなると、もう、その本人が良かれと思うことを自己責任で発信して、あとは不特定多数の誰かに委ねるしかないでしょ?(笑)

生き方だけなら、情報を出しても出さなくても、そんなのは、本人のどうでも勝手だと思うけど、ビジネスにおいては、他人からの評価が100%ですからね。

「何で、私が、見ず知らずのあんたと取引したり、あんたから何か買ったりしなきゃいかんの?その理由って何かあるんですか?」と問われまくってるんだから、まずは「私はこういう人で、こういう理由で、この商売してて、これ売ってるんですよ。」と一人一人が何らかの情報を出さなきゃ始まらない。

そりゃ、世紀の大発明のような卓越した技術力があったり、ユニクロのさらに1/10の値段で同じモノを提供できるような生産力があるなら、ただ置いとくだけで売れるんだろうけど、我々凡人には、そんな能力も資本力もないでしょ。

だから、そういう大手さんがやってることは鼻っから狙うべきではない、と私は結論づけていますから。

こと現代ビジネスにおいては、モノや技術やサービスだけでは、飽和しまくっている環境の中で、お金を払うだけの「個性」が求められています。

我々凡人企業における「個性」とは、つまりは「個人の普通の日常」の連続が最も簡単かつ有効だ、と私は考えている訳です。

しかし、まぁ、自分のブログの画像を改めて見返してみると、自分では「日常」をただ羅列しているだけのつもりでも、客観視してみると、やっぱり「変わり者」ということになるんでしょうね(苦笑)。

そもそも、こういうアホ画像をブログに上げていいかどうか躊躇しなきゃいけなかったり、周りの人に対する影響を気にしたりしなきゃいけない環境が面倒で、株式上場した会社を辞めちゃったワケで、それも私個人の価値観なんだから、個性なんでしょうね(笑)。

「楽しい」と思ったり「面白い」と純粋に思えることを発信できない環境なんてのは、私にとっては死んでるも同然です(苦笑)。

無理のない日常こそが、個性だという私の論法を前提にするなら、あなたの日常は、他人から見たら、十分に変で変わり者で個性的だということです(笑)。

だって、多くの人のブログやFacebookの投稿見てると、私から見たら、「この人、ホントに変わってるなぁ。よくこんなことやったり書いたりして平気でいられるなぁ。」というも思ってますもん(笑)。

私もあなたも、ただ生きてるだけで十分に変で変わり者で、そして「個性的」なのです。

情報発信はした方がいいと思っているけど、毎日のように何を書いたらいいのか分からないとしたら、日常のことをただ書いていけば、それで十分「個性的」だというこでしょう。

ただし、その全ては自己責任で(苦笑)。

私の自分が出している画像を見ながら、改めてそう思いました(苦笑)。

まぁ、よっぽど大丈夫ですよ。

私のことも、あなたのことも、大して誰も注目なんてしてませんし、自分で思ってるほど見てませんから(笑)。

改めて連続して見てみると、そりゃ変だわな(苦笑)。
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